こんにちは🙏お照(Oshyo)です。
かれこれ12年、お寺で僧侶をしている者です。
今回は、「幸せや愛情との付き合い方」について解説します。
ブッダの言葉と私の視点から、簡単に分かりやすく話していこうと思います。
[結論▶解説▶まとめ]の順番です。
結論:どんなものも儚い、無理に追い求めなくても良い

はじめに質問です。
あなたは、愛情や幸せとの付き合い方を考えたことはあるでしょうか?
私達は、普段の生活の中で自然と、自分が大切にしたいものや宝物を持つようになります。
家族や友人や恋人、家や職業など人によって様々です。
そして、それらを持っていると、非常に恵まれていて幸福に感じます。
愛情や幸せはあればあるだけ良いもので、特に付き合い方を考える必要は無いように思います。
ずっと、心が満たされていればそれでよいです。
しかし、私達の住んでいる世界では、そうも行きません。
人はいつかは亡くなり、幸せな気持ちにも時期によって波があります。
この事実は、当たり前で今更話すようなことでもないとも思います。
あなたも、経験されたことがあると思いますから。
ただ、いざ幸せや愛情を失ってしまうと、誰でも辛いものです。
2500年前にお釈迦様が、インドで仏教を始められました。
その時代にも私達と同じように、幸せや愛情を失うことで苦しんでいる人々がいました。
お釈迦様は、このような問題に対して以下のように答えられています。

私達の生きる世界は、夢に似ています。
どれだけ幸福でも苦しくても、ぱっと夢のように消えてしまいます。
この言葉の意味を分かりやすく解説していきます↓
解説:この世は夢のように非常に儚い

「幸せや愛情を失うことが苦しい」という問題に対して、次のお釈迦様の言葉を参考にしていきます。
君が死んだら
夢の中、君のベッドの中にすてきな恋人がいて、
めくるめく恋のものがたりが展開してくれたとしても、
ぱっと目が覚めたなら、すてきな恋人にはもはや会えない。
「あなたのために料理をつくったの」などと聞いて
喜ぶことももはやできずに、
布団の中でねぼけまなこをこすりつつ、
鳴りひびく目覚まし時計をストップさせて、
そろそろ仕事に行かねばならない。
この夢からの目覚めのごとくして、
君の大事な人たちとは、君が死んだら二度と会えない。
小池龍之介『超訳 ブッダの言葉』(2011)184項
まとめると、
・夢の中には、素敵な物語があるかもしれない
・しかし、その夢はいつしか覚めてしまうものである
・現実の世界は夢と同じように、死によって覚めてしまい甘い思い出も消えてしまう
という内容です。
生きていることは、つかの間の夢に似ている
上記の説明は、少し分かりづらいところがあるかと思います。
夢から目覚めることが、死んでこの世を去ることと同じように書いてあり、直感的には分かりづらいからです。
ただ、この表現は仏教の考え方を非常によく表しています。
仏教では、私達が生きているこの世界は、まさに、つかの間の夢のようなものであると考えます。
私達は、普段この世界は確実に存在していると考えます。
そして、疑うこともありません。
例えば、あなたはあなたであり、私は私であり、リンゴはリンゴです。
それぞれが間違いなく存在していると考えます。
当たり前の感覚です。
しかし、100年後はどうでしょうか?
おそらく今生きているほとんどの人は死んでいます。
あなたも私も、灰や塵、土の一部になっているでしょう。
リンゴはもっと早い時間で、腐ってなくなり、そのリンゴと呼べるものは存在しなくなっています。
確かに今は存在していると感じるのですが、それは一時的なものです。
しかも、非常に不安定で変化しやすいものです。
現実の世界も、まるで夢のようにスッと消えていってしまうと例えられます。
現実は非常に曖昧で儚い

また、現実と夢にそれほど違いはないのではないかという説話もあります。
昔の中国の思想家である壮士の、『胡蝶の夢』にその内容が書いてあります。
「夢の中でチョウとしてひらひらと飛んでいた所、目が覚めた。
はたして自分はチョウになった夢をみていたのか、それとも今の自分はチョウが見ている夢なのか」
という内容です。
簡単にいうと、
自分は眠って夢を見ていたと思ったが、本当は今の自分も別の夢の中の存在なのではないか?
ということが述べられています。
さらに、現代盛んに研究されている量子力学の世界でも、私達が思っているような確かな世界が、根本から論理的に否定されてきています。
もちろん幽霊がいるかもしれないというような話ではありません。
私達が思っている以上に、世界の成り立ちが夢や幻の類に近いという可能性があるといったことです。
私自身、興味本位で量子力学の知識をかじったのみで、正確な情報を伝えることはできません。
そして、量子力学自体もまだ発展途上の分野です。
しかし、気難しそうな名前に怖じけずに調べてみると、非常に面白い研究結果や知見があるので、あなたも調べてみると面白いかもしれません。(有名な実験は、「シュレディンガーの猫」や「二重スリット実験」)
儚い現実でどう生きるのか?

話がだいぶそれてしまいました。
結局私が、お釈迦様の言葉や、壮士の説話、量子力学の話を借りて述べたいことは、
私達が「ある」と信じて疑わなかった世界が、実はそれほど明確に存在しているわけではなく、非常に儚いものである
ということです。
では、世の中が儚いからどうだというのでしょうか?
儚いからといって、私達の人生がどうでも良いものになるということになりません。
幸せを求めて活動することも、大切な人に愛情を注ぐことも、私達の生きる意味に繋がります。
全てが無意味であると言っているわけではありません。
儚いものを追い求めて苦しまない

私達が、「世の中の儚さ」から学ばなければならないことは、幸せや愛情を追い求めて苦しむ必要は無いということです。
私達が常日頃から欲しがっている、幸せや愛情は、それを欲しがることによって苦しくなります。
簡単には手に入らないからです。
そして、手に入れたとしても、幸せや愛情がずっと続くこともない。
これは先程から述べているように、全てのものは儚くあるからです。
そして、儚く消えてしまうものを留め続けようと苦心しています。
仏教では上記のような、世の中で称賛される幸せや愛情といったものに苦しみ続ける必要は無いと答えます。
それらは、夢のように儚いものだから、固執して苦しまなくてもよいのだと考えます。
そういった固執してしまう原因から、心理的にも物理的にも距離を置く生活を仏教では行います。
だから、山で生活したりするわけです。
「諦める」ということ

では、普段の生活を行わなければならない私達は、どうすればよいのでしょうか?
普通に生活していれば、幸せや愛情を求めるのは自然なことです。
そこで気をつけるべきことは、「全てのものは夢のように儚い」と心得て置くことです。
そして、儚くも大切なものを失ってしまったときは、必要以上に苦しまず「諦める」ことです。
「諦める」ということは、とてもマイナスなイメージをもつ言葉です。
他人に進められるような言葉ではありません。
しかし、「諦める」という言葉は、もともと仏教の言葉です。
仏教用語としての「諦める」は、それほどマイナスな意味合いではありません。
本来「諦める」は、「真理を明らかにする」という意味合いから来ています。
つまり、「明らめる」です。
ここでの真理とは、「全てのことは儚い」ということです。
「全てのことは儚いということを明らかにする」ことによって、大切なものを失った時に本当の意味で「諦める」。
誰に対して「明らか」にするのか?
それは、自分に対してです。
大切な人を失うことも、愛情がなくなってしまうことも、全ては儚いと自分で自覚することです。
私達ができることは、このことを常に心得ておくことであると考えます。
まとめ

私達は、幸せや愛情を求めながら生活しています。
それは、決して悪いことではありません。
私達は、しばしばこれらのことを生きる意味にして生活しています。
幸せや愛情を求めることは、生活に張りをもたらし、活力を与えてくれます。
しかし、私達は幸せや愛情によっても苦しみます。
望んでいた幸せが手に入らなかったり、愛情を失ってしまうと深い悲しみに囚われます。
このことは、あなたも経験から知っていると思います。
この永遠の課題ともいえる、幸せや愛情との付き合い方は非常に難しいものです。
そこで、お釈迦様の知恵である「世の中の全てのものは、夢のように儚い」という言葉を借りました。
本来ならば、幸せも愛情も儚いので、追い求めるようなことをせず、静かに過ごすということになります。
しかし、普段の生活の中で、このこと完璧にこなすことは非常に難しい。
なぜなら、幸せを望まずに仕事をすることも、愛情を望まずに人と付き合うことも心理的に困難だからです。
私達は当たり前の生活を営むだけでも、幸せを望み愛情を欲しがります。
そこで、「諦める」という知恵を使います。
先述の通り、仏教用語である「諦める」という言葉には、「真実を明らかにする」という意味があります。
「幸せも愛情も、全てのものは儚い」という真実を、自分に対して「明らか」にしていることが大切なことです。
どうしても、私達は幸せや愛情を求める生活をしてしまう。
そして、いつかは失ってしまう。
私達が大切にすべきことは、この事実に対して常に心構えを持つことです。



コメント