こんにちは🙏お照(Oshyo)です!
かれこれ12年、お寺で僧侶をしている者です。
今回は「なぜ「良い人」であることは疲れるのか?」について、仏教とお照の視点から[結論▶解説▶まとめ]の順に、簡単で分かりやすく説明します。
結論:「歪んだ自分」を含んだままでいるから

あなたは、自分が「良い人」か「悪い人」かでいうと、どちらでしょうか?
近年では、『嫌われる勇気』などの本が人気となり、無理に「良い人」であろうとすることを止めようという風潮があります。
誰しも、人から嫌がられることは気分の良いものではないですし、どちらかというと人から好かれたいと思うものです。
しかし、なぜか「良い人」であろうとすることは、非常に心が疲れるものです。
お釈迦様が仏教を始められた時代にも、「良い人」とはどのような人なのかという疑問が存在しました。
この疑問に対して、お釈迦様は次のように答えられました。

自分の良くないところは見えづらいものです。
他人ばかり見るのではなく、しっかりと自分を見ましょう。
この言葉の意味を深堀りしていきます↓
解説:自分の過ちには気づきづらい

お釈迦様は、自分自身の行為への気づきづらさを、次のように述べられました。
自分の良くないところは
自分では見えにくい
他人のよくないところはとてもよく見えるし、ついつい調子にのって指摘したくもなる。見えにくいのは、君自身の良くないところ。
自分は「いい人」のつもりでも、実は他人に善意の押し売りをしていたりするかもしれない。誠実に謝罪しているつもりでも、実は許してもらえないとすぐ腹を立ててしまう偽善者だったりするかもしれない。
こういう「歪んだ自分の本性」こそが見えにくい。
他人の問題点を指摘することで、「ちゃんと指摘できる立派な自分には問題がない」と錯覚するがゆえに、自分自身の問題点が隠されてしまう。
それはまるで、ギャンブルでサイコロを振って、自分に不利な目が出たらイカサマして隠してしまうギャンブラーのよう。
小池龍之介『超訳 ブッダの言葉』(2011)125項
まとめると、
・他人のよくないところはよく見える
・反対に、自分の良くないところは見えづらい
・都合が悪くなると、「歪んだ自分の本性」がでてくる
という内容です。
私達が捨てたがっている自分の中の「良い人」

実際、お釈迦様の言葉のように、自分の欠点に目を向けることはなかなか難しいです。
気がついたときには、自分の欠点を棚上げして、他人の過ちに注目している。私自身も「良い人」ではなさそうです。
だからこそ、私自身は「歪んだ本性」を含むような「良い人」ならば、捨ててしまっても良いのだと思います。
自分の本心での行いなのか、それとも偽善での行いなのか?その区別が自分では困難だからです。
だから一度、自分自身の「歪んだ本性」を含むような「良い人」を捨ててしまうことは、自分の中の「本当の良い人」を導き出す手段の1つとして有効だと考えます。
まとめ

私達が生活している中で感じる「良い人」でいることの疲れは、自分が「歪んだ本性」含んだまま「良い人」として振る舞っていることに、うすうす気づいているからだと思います。
お釈迦様の言葉にもあるように、私達は自分の悪いところを見つめることを苦手としています。
このことに注意を向けることで、なんとなく「良い人」として振る舞ってきた自分自身の欠点に気がつくことができます。
そうすることで、「歪んだ自分の本性」に気がつくことができ、「良い人」であることの心の疲労感から抜け出すきっかけを掴めます。



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