コラム【仏教の視野】の第2回に当たる記事です。
(始めにこちらの記事に目を通していただけると幸いです→目的・注意書き)
はじめに
仏教と聞くと人それぞれに様々なイメージをお持ちになると思いますが、仏教の目的とは一体何なのでしょうか?
仏教の始まりから考え、仏教の目的を考えていきたいと思います。
始めに結論から述べさせて頂きますと、仏教は心の安寧を得ることを目的としています。
というのも、仏教の生みの親であるお釈迦様自身が、自らの苦しい状況から抜け出した経験をもとに語り継がれてきたものが仏教だからです。
ここでお釈迦様がどういった人物であったのかを少し紹介し、どのような経緯で仏教が生み出されたのかを説明します。
仏教のきっかけ
お釈迦様は、約2500年前のインドで活動されていた方です。聖徳太子が1500年前の方なので、その更に1000年前の人物です。
お釈迦様は一国の王子としてお生まれになりました。
幼少期は非常に裕福な生活をされていたのですが、美しい宮殿内で生活するのみで外の世界に触れることがほとんどありませんでした。
20代後半の時、宮殿の外に出て、よぼよぼのご老人や病人に出くわした経験によって、自分もいつかはそうなってしまうのだと思い詰めるようになりました。
そして、人はいつかは死んでしまうのだという事実に苦しむようになられました。
そのような心情の中、とある修行者に出会い、その何事にも思い悩むことのないような姿勢に関心をお持ちになられ出家を決意されたのでした。
そして、数年の修行の後、お悟りをひらかれ心の安寧を得られました。
その後は、80歳で亡くなられるまで、その心の安寧の境地に至るための教えをインド各地で授けて周られました。
仏教の始まり
この仏教の始まりからも分かる通り、仏教のきっかけは耐え難い苦しみに会ったことから始まり、そこから心の安寧を得ることを目的としました。
おそらく、仏教の始まりの地点にあったものは、木陰にて瞑想をし続けるといった非常にシンプルな形態であったと思われます。
お釈迦様がお悟りになられた年齢が35歳であり、それまでは様々な修行者の元についたり、壮絶な苦行を行うといったことをされていました。
しかし、それらの修行では心の安寧を得られず、苦行をやめ一人で菩提樹の下に静かに座られました。
この時のきっかけををお釈迦様は、「子供の頃に、祭りの喧騒から離れ木陰で座っていたことを思い出した」と伝えておられます。
その後数日間、菩提樹の下にて瞑想を続けられお悟りになられました。
この話は多くの人に広まり、教えを望む人が集まるようになりました。もちろん集まる人々も様々で、悩みについてアドバイスを求めたり、瞑想の指導を受けたいという人もありました。
お釈迦様は一人一人に対して、様々な方法によって心を安穏へと導いていたのだと思われます。
仏教の道のり
そして仏教のイメージに伴うお寺や仏典・仏像なども、時代を経て仏教が広まってゆく過程で作られて行きます。
最初のお寺は、お釈迦様のご存命中にスダッタと呼ばれる長者から寄進された祇園精舎と呼ばれる寺院でした。スダッタ長者自身がお釈迦様の説法をお聞きになられて、雨季の説法の場として寄進されたものがお寺の始まりでした。
また、諸説ありますが、現存している最古の仏典は、お釈迦様が亡くなられてから約500年後に編纂されたもののようです。それまでは、お弟子さんが脈々と口伝えによって受け継いでいました。そのお弟子さんが大きな集会を開き、書物にまとめたものが仏典と呼ばれるものです。後の世に造られた経典も沢山あり、お釈迦様の直説かどうか分からないものも多く存在しています。
仏像も様々な目的を持って造られます。お釈迦様を模範とするための仏像や、経典内の教義を具現化し表現するための方法としても多くの仏像が製作されました。
現在、アジアを中心に無数の仏教文化が見られます。
約2000年前にインドを出た仏教は、周辺国に徐々に広がりながら、その土地独自の文化と混ざり合いながら多くの人々に受け入れられてきました。
我が国日本にも、仏教誕生から約1000年の時を経て伝わりました。
日本に仏教が伝来するまでに、中国を経由し、特に中国特有の思想である儒教と融合し、後に日本の神道とも融合していきます。
やはり、仏教には長い長い歴史が存在し、その内容は様々な思想と織り混ざりながら非常に複雑なものとなりました。
その複雑かつ意味深い仏教思想は、多岐にわたる発展を遂げ様々な文化を織りなしてきました。
私たちは今、その仏教の上にいます。
私自身、仏教を調べ始めて感じたことは、非常に幅広く奥深く難しいということです。
仏教の目的
しかし、何よりも忘れてはいけないことは、お釈迦様自身が、自らの苦しい状況に対して心の安穏をもたらすことを目的としていたことです。
そしてそれは当然、机上の空論ではなく、私たちの生活に対して切実に実りあるものになることが大切です。
もちろん、知識の収集や仏教の研究を抜きにしては、全く違ったものになってしまう可能性があります。
ただし、論理的であり理想的であるだけでは心に安穏が訪れることはありません。
仏教は、私たち自身の身に迫る心の安穏であり、その実現こそが目的であると考えます。

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