2023/7/17より上映中のジブリアニメ 宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』を、仏教的な視点で考察する記事です。
*ネタバレを多く含みますのでご注意お願いいたします。
なぜこの記事を書こうと思ったのかと言いますと、作品の内容が非常に複雑であり、多くの人が理解に苦しむ傾向があるようだからです。
私自身も2度見たのですが、原作の小説『君たちはどう生きるか』も読んだことがありません。
特段にジブリ作品に詳しいわけでもありません。
ただし、この作品は内容の趣旨として、仏教の知識や世界観を知っているかどうかで、作品の理解度が格段に変わると感じます。
解説は、私自身の仏教視点での解説になりますのでご注意ください。
皆さんの、作品を楽しむスパイスや考察の材料としていただければ幸いです。
なぜ仏教の視点が必要なのか

まず初めに、なぜこの作品において仏教の視点が必要なのでしょうか?
それは、主人公である真人に大きく影響を与える存在である「青鷺(アオサギ)」の存在がキーポイントになります。
初めて試聴された方は、カッコいい青鷺の中から禿げたオジサンが出てきたのでびっくりされたかと思います。
そして、このオジサンにはモチーフとなった人物が想定されます。
それが、江戸時代の禅僧である「白隠 慧鶴(ハクイン エカク)」です。
この考察には根拠になる資料がありまして『禅とジブリ』という本です。



この3ページ目に『君たちはどう生きるか』についての語りが少しだけ出ています。
5年前の本ですが、プロローグからこの作品の制作について語られているので、禅との繋がりは約束されていると言えるでしょう。
そして、その本の1章から白隠さんについての話が始まります。
さらに、青鷺と白隠さんの見た目がほぼ一致しています。
ギョロッとした特徴的な目と、てっぺんハゲ、サイドに少し残っている髪の毛などはほぼ一致しています。
さらに、性格面でも禅僧の面影を強く感じるのが青鷺です。
基本、青鷺はウソつきであり、主人公を騙して連れ回すポジションにいます。
しかし、最終的に主人公が生きていく一歩を踏み出すための導き手としての役割を果たします。
仏教では「方便」と言う言葉があります。
人を世界の真実に直接導くことは容易くなく、その導く手段としてのウソをつきます。
これが方便であり、青鷺の方便は主人公の亡くなったはずのお母さんに合わせてあげると言う内容でした。
この誘因もあり、主人公の先祖(大叔父様)が作った世界の真実に限りなく近づく図書館のような謎の塔へと入り込みます。
さらに、青鷺は言語的矛盾(パラドックス)の使い手です。
作中では「嘘つきのウソは本当か?」かと言ったセリフがあり、この言葉を矛盾させて相手の思考に転換を加えるのは禅僧のオハコです。
いわゆる禅問答です。
さらに、主人公が図書館の中で床に沈んだ後の世界は、仏教の悟りの世界やそれまでの道のりに現れる現象をイメージさせる描写がたくさんあります。
このように、『君たちはどう生きるか』には仏教の要素が沢山あらわれます。
そして、ラストシーンでは現代の社会に生きる私たちへの、袋小路のような最大の問いかけがなされています。
私の曖昧な記憶ですが、ここから大まかにストーリー全体を考察していきます。
【適度にストーリーを区切りながら、仏教視点での解説を行なっていきます】
母親の喪失〜塔の床に沈む


(写真左)コペルニクスが「地動説」を発見した街にあるフロムブルク大聖堂。原作ではコペルニクスが重要人物となっている。
(写真右)コペルニクスが天体観測を行っていた塔内部。大叔父のいた場所と酷似しています。
引用:https://4travel.jp/travelogue/10034629
時代背景は、戦時下の日本です。
この作品は、主人公が母親を病院の火災にて亡くすシーンから始まります。
そして、母(ヒミ)の妹(ナツコ)と父(ショウイチ)が再婚して、片田舎の大きなお屋敷にて生活が始まります。
主人公は実母の喪失から、気力を失ったような状態で、新しい学校にも馴染めない様子でした。
新しい学校でもいじめを受けて、自傷行為まで行なってしまいます。
そんな日常の中で喋る鳥である、青鷺が主人公に近づいてきます。
青鷺は死んだ母親に合わせてやると言いますが、主人公は敵意を持って追い払います。
しかし、実父との子供を妊娠中のナツコがフラフラと森の中に入っていくのを見かけます。
すぐには追いかけませんが、偶然実母からの贈り物である『君たちはどう生きるか』の原作小説を読み、心境の大きな変化が現れ、ナツコを救いに森の中へ入っていきます。
その追いかけた先に待っていたのが、青鷺と謎の塔でした。
ここで賢者のような老人と出会うのですが、この人が主人公の先祖であり屋敷の元の持ち主であり、塔の主人でした。
この塔の中においてナツコを助けるために、青鷺の導きにより異世界のような場所に連れ込まれます。
(ナツコは自分の意思で森に入って行ったと思われます)
解説「発心から真理への旅」

この序盤を仏教的な視点で見ていきます。
仏教を始めたのは2500年前のインドにいたお釈迦さんと言う実在の人物です。
この方も、生まれてすぐ母親を亡くしています。
裕福な家庭でしたので、特に生活には困ることはありませんでした。
しかし、母親の愛情を受けることができずに育ったので、だんだんと陰鬱な青年として育っていきます。
この辺りも、裕福な実業家の父を持ちながら、母親を失っている主人公と重なります。
そして、お釈迦さんはこの世界に対する憂鬱からの脱出を試み修行の旅に出ていきます。
インドは仏教以前から修行者の沢山いる社会でしたので、先輩出家者にも導かれながらの修行生活でした。
そして、ここは日本であり、日本仏教の大家とも言える白隠さんがモチーフとなった、青鷺が主人公の導き手になったのだと思われます。
作中では主人公が『君たちはどう生きるか』の小説を泣きながら読んでいました。
このシーンの前と後では、主人公の様子は大きく変わっています。
本を読む前は、非常に物静かな感じでしたが、読んだ後からアグレッシブに行動するようになり、距離感を覚えていたナツコを助けようともしています。
おそらく、この本に触れたことによって、精神面で大きな転換があり、仏教で言うところの「発心(ほっしん)」したのだと思われます。
つまり、仏教的な道のりが始まったきっかけが『君たちはどう生きるか』の小説だったのではないかと考えます。
そして、作中の最重要人物とも言える塔の中にいた大叔父様は悟りを開いた人のような立場にいます。
この人物は、大昔に本の読み過ぎで頭がおかしくなって失踪したと言われていた人物でした。
異世界に落ちる〜大波を越える

大叔父様との出会いから大きな場面転換が起こります。
図書館のような塔の部屋で、青鷺と主人公、そしてキリコと言う偶然ついてきていた館の召使のおばあちゃんが揃って床に沈んでいきます。
そして、異世界ともあの世とも言えるような海辺の草原で主人公は目を覚まします。
そこには門があり「我を学ぶものは死す」と言う言葉が書かれていました。
主人公は、海辺にいたペリカンの群れに襲われるようにしてこの門の中に押し込まれます。
そして、ペリカンに食べられそうになったところを、この異世界に以前から暮らしていると言う若い頃のキリコによって助けられます。
門の奥には巨石を組み合わせた中の真っ暗な洞窟がありました。
その暗闇に襲われそうにもなりましたが、これもキリコの火の結界によって守られます。
そして、助けられたそばからいきなり海が荒れ、キリコが乗ってきた小舟に乗せられて最大の大波を超えて、凪いだ海に出ていきます。
解説「脱出と悟り」

図書館のような塔の床に沈むといった、非常にファンタジーな展開ですが、このシーンには強い意味が込められています。
まず、塔の内部は知識の書庫のようであり大叔父は膨大な知識を持つ賢者のような風貌をしています。
そのような場所で床に沈んでいくのは、主人公が『君たちはどう生きるか』の本を読み、世界の叡智や知識に触れたことによって、その深淵に飲み込まれていくことを意味していると思われます。
そしてたどり着いた先に待ち受けていた、「我を学ぶものは死す」と言う言葉のかかれた門。
この「我」は、いわゆる世界や真理と呼ばれるものであり、それを知り過ぎてしまった者は死ぬと言う意味であると思われます。
作中ではこの「我」は巨石の中の深淵なる暗黒に、主人公を引き摺り込もうとしていたようです。
これは、過去における世界の真理に挑んだ大哲学者や学者が、発狂や衰弱して自殺や早死をしていく傾向にあることを踏まえると、「我」に近づこうとすることは死に向かうこと、とも言えるのだと思います。
そして、その自己破壊的な衝動を表すものとして、どんなもの(知識など)でも本能で貪欲に飲み込んでしまうペリカンが採用されたのだと思います。
ペリカンは主人公の外敵というよりは、真理に近づいた際に迸る自己の耐え難い衝動のようなものの象徴です。
では、なぜ主人公はペリカンに襲われはしましたが、食べられなかったのでしょうか?
別シーンでのキリコの発言ですが、「青鷺に連れてこられたのなら大丈夫だ」と言うような発言をしていました。
おそらく、導き手なしで1人でペリカンに襲われた場合には死んでいたと言うことになります。
仏教の修行でも必ず師匠がつきます。
なぜかというと、修行の指導者であると同時に、弟子が真理の深淵に落っこちて帰って来れなくなることを防ぐための人でもあります。
主人公には、頼りになる青鷺という師の存在がいたのです。
そして、キリコと言う人物ですが、恐らく神道に由来する人物のように思われます。
確証はありませんが、ペリカンや迫り来る「我」を追い払うのに使っていた火の出る道具や、火の結界は仏教というよりは神道や神楽を思わせるような雰囲気がします。
また、巨石はおそらく「天岩戸(あまのいわと)」をモチーフとしています。
巨石の形が鳥居に似ていることや、周囲の大木が神社を思わせます。
天照大神が天岩戸にお隠れになった際、呼び出すために鳥を鳴かせた様ですが、その鳥を留まらせた柱が鳥居の起源と言われています。
天岩戸と鳥居を掛け合わせたデザインなのかとも思いますし、神道以前とも言える日本のアニミズムを象徴しているのかもしれません。
日本の歴史が神道と仏教の二人三脚である神仏習合そのものですので、仏教の青鷺、神道のキリコという見方もあり得るでしょう。
そんなキリコの船に乗せられ、荒れた海の大きな波を1つ越えます。
このシーンは、世界の真理に限りなく近づいたが飲み込まれることなく生還したことの象徴であり、深淵から戻ってくる際にはこのような大波を乗り越えなければならないと言うことでしょう。
この先の突然の凪いだ静かな海は、明らかに悟りの境地です。
悟りの境地は、仏教ではしばしば波風のない静かな水面で表現されます。
釣り〜食料の配給

この海でキリコは、漁をして大きな魚を釣り上げます。
周囲には様々な船があり、そこには影法師のような人々が船に乗って生活しています。
キリコの案内で到着した隠れ家では、このような人々が沢山いて漁の成果を待っています。
ワラワラと呼ばれる白くてフワフワした可愛い生き物も沢山います。
解説「悟りの住人と生命」

キリコは「ここでは死んだ人の数が多い」と言っていますので、悟りの境地に至った人々か暮らしている世界のようです。
仏教には、涅槃と呼ばれる言葉があります。
悟りの境地に入ることを言うのですが、「生きたまま悟りを開く」「死んで悟りの世界にゆく」と言う意味が2種類あります。
これは2つの意味を同時並行的に使っていて、「生きながらに死んでいて、死にながらに生きている」と言う、仏教における生と死の境界を取り払う世界観を表しています。
つまり、この波を超えた先の世界では、死者もいるし生きながらに悟っている人々も暮らしていると言う非常に生死の曖昧な「悟りの世界」です。
それを象徴するように、キリコが食べ物を与えていた人々は、いわゆる托鉢僧の格好ににています。
「生き物を殺せない人々が、食べ物を待っている」と言うような発言をしているので、恐らく悟りの世界に住み続ける「上座部仏教」と呼ばれる人々を指していると思われます。
日本の仏教は「大乗仏教」であり、いわゆる「菩薩」的な生き方を目指すものです。
菩薩は悟りの世界に安住することなく、人々を救うことを目的とする人々のことです。
主人公はキリコと一緒に魚を捌くのですが、このシーンも日本仏教が肉食を風土の中で是としてきた歴史を思わせる場面であります。
後半で説明しますが、恐らく主人公の真人は、上座部仏教的生き方ではなく、大乗仏教の菩薩道的生き方を選択したと思われるシーンがあります。
そして、ワラワラと言う可愛い存在ですが、「魚の肝を食べて精をつける生き物」であることと後半のシーンから、主人公の精子の象徴であると思われます。
ワラワラの飛び立ち〜老ペリカンの語り

次のシーンでは、夜にワラワラが夜空に飛び立っていきます。
しかし、突然ペリカンの群れが現れ、ワラワラを次々と食べていきます。
キリコによると、ペリカン達は海の餌が減ったことによって、ワラワラを食べるようになったと言います。
このペリカン達に対して、突然小舟で現れたヒミ(主人公の母親の幼い頃の姿)の炎によて撃退されていきます。
この際、ペリカンもワラワラも沢山の犠牲が出ています。
次が犠牲になった老ペリカンの語りです。
「何度も空高く羽ばたこうとした。しかし、生命の作り出されるこの呪われた島に戻ってきてしまう。海の食糧も少なくなり、私たちはワラワラを食べる様になった。」
、と自分たちの存在を明かしています。
解説「生殖と反出生」

ワラワラ群れの飛び方にヒントが隠されており、螺旋状になって飛んでいます。
精子のDNAは二重螺旋構造ですが、その塊である染色体は卵子と結びつくと減数分裂を起こし、2組の染色体が半分に分かれます。
ワラワラのシーンでは一重螺旋でしたので、DNAの螺旋構造と生殖のために半分になる染色体の意味を込めていると思われます(一重螺旋のRNAの可能性もありますが)。
そして、主人公1人では不完全であり、結びつく相手を求めている描写のように見えます。
それをペリカンが食べにくるところはなかなかゾッとするシーンです。
ペリカンは上記で、主人公が真理に近づいたことによる作用としての自己破壊的な衝動と説明しました。
そのペリカンが自分の生殖を妨げにくると言うことは、つまり子孫を残さないと言う衝動が表れたのだと言えます。
主人公にいわゆる「反出生」的な気持ちが生まれているのだと思います。
この「反出生主義」とも言われる考えは、哲学思想におけるラスボスとも言われており、生きる意味や人生を考える上での袋小路ともいえます。
恐らく大昔から存在する考えでしょうが、多くの人が行き詰まり、いまだにどのように覆えせるのか予想がつきません。
このような象徴ともなって現れたペリカンですが、ヒミの攻撃によって撃退されます。と同時に、息子である主人公の生殖能力も同時に攻撃が直撃しています。
つまり、主人公にとって母親は反出生的な精神を打倒する希望でもあり、同時に生殖能力を阻害するような存在でもあり得ると言うことです。
老ペリカンの語りですが、現実的な資源不足が反出生の源にもなっていると聞こえます。
ワラワラ(生殖細胞)の食べ物は魚(資源)であり、ワラワラが増殖する世界では魚はどんどんと減っていきます。
これは、現在の世界における人口爆発と戦争、それによる大量の資源の消滅、そしてその危機感からくる「生まれるべきではない」と言う大きな視点での現実世界を反映した構図になっているように思います。
青鷺との旅〜ナツコのいる部屋へ

老ペリカンとの会話の後、主人公は青鷺と再開し、共に協力しながら旅に出ます。
旅の先には一軒の鍛冶屋があり、そこにはインコ達が暮らしていました。
インコに連れられて中に入った主人公は、インコに食べられそうになります。
そこにも、ナツコの姿はありませんでしたが、インコ曰く「子供を身籠っているから食べない」のだと言います。
襲われた主人公は、突然現れたヒミに助けられ、更なる異世界に飛ばされていきます。
逃げた先のヒミの家にかくまわれ、食事を与えられますが、それは非常に母親の味に近しいものでした。
その後、ヒミに連れられて、武装したインコ達の目をかわしながら塔の中に入っていきます。
そして、塔の中の時の回廊に連れて行かれます。
そこにて、インコ達に見つかりそうになりますが、現実世界へ避難することでなんとか難を逃れます。
そして、再びインコの世界に戻り、地下へと潜ってゆきます。
そして、たどり着いた先が、母屋と呼ばれる場所で寝ているナツコでした。
解説「文明と火」

青鷺と旅に出た後に初めに訪れたのが、インコの住まう鍛冶屋でした。
ここからは、人類の文明の発展と、それに伴う歴史上の日本に起こったイデオロギー(思想や主義)が登場します。
鍛冶屋は人類が火を扱えるようになることで可能になった、生活の質を向上させるナイフや農機具などを生産する場です。
鍛冶屋のインコが持っていたのは、そういった生活のための道具を主人公を殺すために応用したものでした。
そして、ヒミに助けられそのまま別の世界に移動しますが、出口はヒミの家のカマドの鍋の中でした。
これには、火によって人類が料理を行うようになったことの象徴のようにも感じます。
料理は、人類の進化にとって欠かすことのできない技術でした。
生肉などの高エネルギーの食物は、噛むことと消化に大きなエネルギーを必要としました。
しかし、火を通すことで、簡単に食物を摂取できるようになり、浮いたエネルギーを脳の発達に利用できたとする進化の説明もあります。
その次には、武装したインコや労働するインコに出逢います。
人類の火は、人を殺すため、もしくは労働生産するための武器や道具を生み出すためのものとなりました。
火は人類の発展に決して欠かすことのできないものでした。
最初は、穏やかな料理や農機具として利用されましたが、次第に権力や武器・労働生産の道具になっていきました。
また、キリコやヒミはペリカンを追い払ったり、真理の深淵から主人公を守るために儀式的な意味合いでも火を使っていました。
何はともあれ、この物語の最初のシーンは戦争の火です。
実用的儀式的(動物への対抗・魔除け・料理)や鍛冶屋(ナイフや農機具)▶︎武装(剣や鎧)や労働(歯車)▶︎戦機(爆弾や軍用機)
そして、武装したインコのいるこの世界は、明治以降の軍国主義かつ資本主義の日本です。
江戸以降の日本では、西洋社会の富国強兵政策を取り入れ、軍事的な性格を強めていきます。
その象徴としての、明治・昭和期の軍装や、労働生産のシーンが描かれています。
この世界では、悟りの世界にいた主人公が、現実の世界の象徴的な場面に出くわしながら学んでいくように見えます。
そして、その文明の進展した世界において、今まさに出産を迎えようとするナツコと再会します。
ナツコとの再会〜大叔父との出会い

ナツコはインコ達のいる塔の最下層にいました。
ナツコのいる部屋は、大きな石窟ような場所であり、その中で出産を間近に控えたナツコが横たわっていました。
ナツコに目を覚ますよう促す主人公は、一緒に元の世界に帰ろうと伝えます。
しかし、ナツコは「なぜここに立ち入ったのか!」と強く怒りを現し主人公を拒否します。
すると天井から沢山吊られていた紙垂(しで・しめ縄に吊るされる稲妻型の紙)が生き物のように襲ってきます。
主人公は襲われながらも、懸命にナツコに「お母さん!」と呼びかけます。
この呼びかけに反応したナツコは、主人公を心配し部屋から逃げ出すよう呼びかけます。
部屋から抜け出た主人公はヒミと一緒にインコに捕まってしまいます。
主人公は、部屋を出た際に気絶してしまいますが、その最中に架空の空間で大叔父に再開します。
大叔父は、様々な形の積み木を積み上げながら考え事をしていました。
現実世界の均衡を示すその積み木は、グラグラと揺れて今にも崩れそうでした。
主人公は大叔父に連れられ、大きな石が浮いた草原に連れ出されます。
大叔父は、その浮遊石から全てを学んだと言います。
そして、先ほど見た積み木は、木ではなく「石」であることが明かされます。
主人公はその「石」には悪意が含まれることに気づきます。
そのような洞察の鋭さを持った主人公に、大叔父は自分の仕事を継がせたいと感じました。
ここで主人公は、インコのいる世界で再び目を覚まします。
解説「「石」とは遺伝子であり本能であり自然の摂理」

ナツコと再開した主人公はどうして拒絶されてしっまたのでしょうか?
それはおそらく、主人公がナツコの直接の息子ではないことに原因があります。
今まさに自分の血を受け継いだ子供を産もうとするときに、血の薄い子供が割り込んできてしまったという状況です。
主人公は自傷行為をした自分を、父親とは違って苦しんでいることに気づき労わってくれた存在でした。
そのような、母親代わりのナツコからの愛情を欲することは仕方のないことです。
しかし、ナツコ自身も本能的に自らの血を濃く持つ自分の子供を優先してしまうことも仕方がない。
この両者の感覚のズレが顕著に現れたのがこのシーンだと思います。
しかし、主人公の必死の呼びかけに対して、愛情を呼び起こされたナツコは再び、主人公を愛しようと感じたのでした。
しかしナツコは、言うことを聞かない自分の本能(石窟の石の意思)によって主人公を追い出してしまいます。
気絶した主人公の次のシーンでは、大叔父もその石を積み上げています。
おそらく、グラグラと揺れ動くその積み石は、人が本能のままに暮らしている世界を表しているのだと思います。
石(無生物)と本能と遺伝子はなかなか繋がりづらい概念ですが、ここでは「遺伝子の命令に従い続ける本能に支配された人間」を表していると考えてください。
生命の誕生は、40億年前の海底の熱水噴出孔で始まったとされています。
無生物の海水を沸騰させ続けると、奇跡的な確率で物質が反応を起こし、自己複製する電磁気的な連なり(遺伝子・DNA)が出現しました。
これが私達の最初の先祖だと考えられています。
この無生物の環境から生まれ出た私たちは、いかほどに「生物」と言えるでしょうか?
この遺伝子に現れた自己複製と自己保存の性質が、淘汰と繁殖を繰り返すうちに現れでた傾向が、私達の「本能」です。
仏教ではこの本能のことを、煩悩と呼んでいます(多少の意味のずれはあると思います)。
この本能は、もちろん遺伝子によって伝えられてきました。
ある意味、私達の現在も無生物的なものを含んでいると言えます。
この私達の本能がむき出しのままの状態を「石」で表しているのではないでしょうか。
グラグラ揺れる積み石は、本能で作られた人間社会全体の危うさを表現しているように感じました。
主人公がこの石に悪意を感じたのは、私達の本能に他者を騙したり排除し争う傾向があることを指摘したのだと思います。
そして、そのことに人間社会の問題があることを大叔父も痛感していたのでした。
ちなみに、浮遊石は知識の源であるとも言われていました。
石には悪意も含まれますが、それと同時に生物進化の根源であり、人間が知恵を身に付けるきっかけでもあります。
映画『2001年 宇宙の旅』では、猿に進化を促す根源として石の塊である「モノリス」が登場しました。
この映画では、「モノリス」の影響で猿が骨を使って競合相手を殺す知恵を身につけます。
その延長に、私たちはどうすれば穏やかな世界を実現できるのかも考えることができるようになりました。
生物進化を象徴するために、この辺りの作品の影響もあるのではないでしょうか。
厨房から塔の上階へ〜ヒミと大叔父の再会

気絶して捕えられた主人公は、架空の世界から目を覚まします。
そこはインコ達の厨房で、今にも料理される寸前でした。
そこを青鷺によって救出され、こっそりと抜け出し塔を登っていきます。
その最中に、天井の梁の上からインコの大衆会に出くわします。
そこでは、眠ったヒミが、大王と呼ばれるインコのリーダーによって、塔の上に連れ去られようとするところでした。
しかし、懸命の追跡も虚しく、ヒミは大王によって塔の上に連れてゆかれます。
大王によって主人公と青鷺は、塔の階段から落とされてしまいます。
ヒミが連れて行かれた先にはなんと、大叔父がいました。
大王は大叔父を慕っているようで、ヒミを差し出す代わりに世界の指導者になることを目指していました。
しかし、大叔父は自分の仕事を主人公に継がせたい旨を大王に伝えます。
これを聞いた大王は、主人公は適役ではないと判断し大叔父に裏切られたと感じています。
ヒミは大叔父との再会を非常に喜んでいました。
解説「史実としての軍国主義と叡智の関係」

大王がインコの大集会を行なっているシーンは非常に印象的です。
リーダーに盲目的に追従するインコ達の様は、やはり戦争に歩みを進めていった日本を彷彿とさせるものがあります。
大王の見た目も、戦争に向かっていった日本の軍国主義を表しているように思えます。
大叔父と大王が親しくしているシーンは、予想外で驚いたかもしれません。
しかし日本の史実では、日本の叡智と言える神道や仏教界も軍国主義に協力的な部分がありました。
もちろん、反戦の立場をとった識者もいましたが、意外なことに当時の軍国主義的な流れに強力な歯止めにはなりませんでした。
日本の叡智は軍国主義的な時流に、協力的な傾向にあったとも言えます。
このことが、この大叔父と大王の親しさに現れているのかもしれません。
しかし、大叔父は聡明であり血のつながった主人公に自分の仕事を任せたいと大王に伝えています。
つまり、軍国主義的な統治のあり方以外の未来の世界に期待してみたいと考えたのだと思います。
主人公は「石」の悪意にも気づき、これまでの石(本能)の世界ではない「争いのない穏やかな世界」をどうにか実現できる可能性を秘めているとの期待感からの判断だったのでしょう。
しかし大王は、自分を選ばなかった大叔父に怒りを感じます。
再び架空の空間へ〜世界の崩壊

大王によって塔の階段が崩れ、床に叩きつけられた主人公と大叔父はなんとか瓦礫から這い出ました。
そして、そこには光に満ちた門がありました。
その中を進むと、再び大叔父のいた架空の空間に辿り着きました。
青鷺はこの空間に初めて来たような反応をしています。
ここからは、先ほどまで先頭を進んでいた青鷺がタジタジになり、主人公がどんどんと先に進んでゆきます。
しかし、その後ろをこっそりと大王が尾行してきています。
主人公の後ろを歩いていた青鷺もその忍びよる気配に気づけていません。
架空の空間を進んでゆくと、大きな門があり、そこを通るとヒミと再会しました。
再会を喜ぶ主人公とヒミは、そのまま大叔父のいる浮遊石のある丘へ向かって行きます。
道中では、だんだんと日が沈み夜になって暗くなって行きます。
青鷺は引き返すことを提案していますが、2人はドンドンと進んでいきます。
主人公は丘を登る最中に、白い石を拾い上げ持って行きます。
ヒミは「まだ何か残っているかもしれない」と石を拾わないように伝えますが、主人公はこっそりと持って行きます。
そして、大叔父のいるところにたどり着きます。
再開した大叔父は、主人公に自分が探し集めいてた13個の純粋な白い石を見せます。
その石は、非常に長い年月をかけ、大宇宙から大叔父が見つけてきたものでした。
白い石には、これまでの石のように悪意は含まれず、非常に純粋なものです。
これを3日に1つのペースで積み上げていって欲しいと、自分の仕事を継ぐように主人公に提言します。
しかし、主人公はその仕事にすぐには取り組もうとは思いませんでした。
自分には帰るべき元の世界があり、そこで青鷺や学校の友達と仲良く暮らすことを選びます。
主人公を諦められない大叔父は、元の世界に帰ってもいいが、とにかく自分の仕事を継いでほしいと懇願します。
そこに、主人公を尾行してきていた大王が怒り狂って飛び出してきます。
大王は大叔父に向かって、主人公がこの仕事を継げば世界を終わらせてしまうと忠告します。
そして、自分には白い石を積み上げることができることを見せようとし、勢い任せに無茶苦茶に積み上げます。
もちろん、石はバランスが取れず崩れそうになります。
大いに焦った大王は、なんと積み上げたその石を剣で全て真っ二つに叩き切ります。
そして、世界の崩壊が始まりました。
解説「希望の白い石と断ち切られる可能性」

架空の世界での青鷺の様子は、なかなか意外なものだと感じました。
これまでの世界では主人公の案内役を、全てわかっているかのように案内していましたが、ここでは戸惑いをあらわにしています。
恐らくここからの架空の世界は、仏教の世界観のなぞりではなく宮崎駿監督の世界観を強く描いているのではないでしょうか。
青鷺は方便を使うので判然とはしませんが、この戸惑いは本物のように思えます。
そして極め付けに、忍び寄る大王の影に気づけていません。
これは、これまでに説明したように、仏教に忍び寄る軍国主義に警戒仕切れなかった仏教界を暗示しているように見えます。
もちろん青鷺のモチーフの白隠禅師は、軍国主義の始まる以前の人物ですので直接は関係ありません。
しかし、その後の仏教界が戦争に飲み込まれていく未来を暗に示しているシーンではないかと感じられました。
ヒミとの再開から、池の飛び石を渡っていくシーンでは、咲いていた蓮華の花が日没とともに沈んでいきます。
蓮華の花は、まさに仏教の象徴の花であり、それが萎んでいく様はなかなかに不穏さを感じさせるものでした。
これは、後のシーンでの大王の愚行を暗示させるものなのか、主人公の元の世界に戻るという判断なのか、それとも仏教の話から駿ワールドへの移り変わりを示しているのかは分かりません。
道中でのヒミの白い石への発言である「まだ何か残っているかもしれないから」と言う内容も、何が残っているのかよく分かりませんでした。
白い石は、拾ったものではなく受け継ぐものとして在るべきと言うことなのでしょうか。
大叔父と再会した主人公は、白い石の存在を示されます。
恐らくこの白い石は、まさに人間の作為なき純粋極まりない存在の象徴として出てきたのだと思います。
まさにこの白い石こそが、人類が穏やかに過ごすことのできる希望として存在しているように描かれます。
これまでの石では、生物が生物として存在するだけで含まれてしまう悪意(保存と増殖への傾向とそれに伴う争い)がありました。
しかし、この白い石にはそれとは異なる存在のようです。
これはまさに、仏と言える存在にあたるように思えます。
ただこの白い石の存在の説明はあまりにも困難です。
物理学で言うところのE(エネルギー)とも言えそうです。
どうやら、ジブリ考察の大家である岡田斗司夫さんによると、大叔父はアインシュタイン(1つの石)も表しているようです。
この考察を含めると、アインシュタインによる相対性理論(E=mc2)の示す、全てはエネルギーに還元され得ると言う理論を、白い石に当てはめられるように思えます。
突然に仏教と物理学が関係してきて疑問に思われたかもしれません。
しかし、史実としてアインシュタインは「仏教は、近代科学と両立可能な唯一の宗教である。」と発言しています。
さらに、物理学の量子論の生みの親であるボーアや、素粒子学者の湯川秀樹も、物理学と仏教の世界観の近似を述べています。(相対性理論と量子論はいまだに相容れない現代最大の難関ですが…)
イメージとして、エネルギーは全宇宙に偏満するものであり、仏も同様に表現されます。
どんなものでもエネルギーであり、私達ももちろんエネルギーの塊です。
この分解不能であり区別さえできない純粋な存在として、白い石が登場したのだと思います。
悪意を含んだ石ではなく、この白い石を積み上げて世界のバランスをとることは非常に困難なことであります。
そして、主人公はこの仕事を直接には引き受けませんでした。
元の世界に戻ることを選んだのでした。
この選択は、仏教における菩薩道にあたります。
菩薩とは、自身が悟りに至った、もしくは至らずとも、生物として抱えざる負えない苦しみの道から救い出すことを決意した存在のことです。
そのため、超越的な存在としてではなく、生物としての存在を引き受けながら認知できる姿で身近にあり続けます。
そのため、悟りの世界からでも必ず世俗の世界へと還ってきます。
この菩薩道の選択を成し得たのが主人公だったのだと思います。
大叔父は超越的な視点から、世界を穏やかなものにしようとしていました。
その試みは成功しそうにもありましたが、大王によって断ち切られてしまいます。
大王は大叔父の仕事を甘く見積り過ぎていました。
白い石は簡単に積み上げられると考えていたのでした。
しかし、富・名声・権力を掲げる軍国主義的な大王ではその仕事は果たすことができませんでした。
大王は、明確に悪いことをしようとしてこのような行動に至ったとは思えません。
大王自身も、世界の良いあり方を考えた末での選択だったのでしょう。
そのために、白い石を感情に任せて断ち切ってしまいます。
そして始まる世界の崩壊は、敗戦に向かってゆく日本を表しているように思えます。
実際に主人公が戻っていく世界は、大叔父にも忠告された戦火の「火の海」の世界であり、戦後といえど人の煩悩の火は消えることのない世界です。
さらに、真っ二つに分断された白い石は、明治政府による神仏分離政策の、神道と仏教の分断も表しているようみ思えます。
日本の政治機構は、おそらく大和政権の頃から続きますが、大和政権発足の後から神仏は共にあり続けました。
この日本の政(まつりごと)と根本から結びついていた両者を、無理やり引き剥がしたのが明治の軍国主義でした。
この分離の流れは8年ほどで収束を迎えたようですが、この選択がもたらした爪痕は現代にも残り続けています。
崩壊する世界〜元の世界への脱出

白い石が大王によって断ち切られると、状況が一変します。
浮遊石が周囲を飲み込みながら暴れ、海が2つに割れます。
その上を青鷺が、主人公とヒミを運びながら時の回廊へと脱出して行きます。
その最中に、浮遊石が彗星のように宇宙を流れ、大叔父が積み上げていた石も宇宙に飲まれて行きます。
なんとか時の回廊に逃れた、3人はナツコとキリコと合流し、それぞれの元の世界へと還って行きます。
つまり、ヒミ・キリコは主人公から見ると数十年前の世界、主人公・青鷺・ナツコは塔の床に沈んだ時間に戻って行きました。
主人公はヒミに、未来に病院の火災に巻き込まれることを警告します。
しかしヒミは、「こんなに良い子に恵まれるのであれば、これ以上に素敵なことはない」と伝え、恐れることなく元の世界に戻って行きました。
元の世界に戻った主人公は、青鷺の住んでいた塔から出てきます。
その拍子に、大王を含むインコ達も飛び出してきました。
インコ達は、これまでの異世界から出てくると、標準的な大きさに変わってしまいそれぞれに飛び立って行きます。
さらに、ペリカンも大量に飛び出してきました。
他の鳥と違って、ペリカンだけは元の様子と変わらず主人公の住まう世界へと飛び立って行きます。
主人公はペリカンに向け「良かった、君たちも無事だったんだ」と、少し安心した様子です。
ここで青鷺が主人公に、これまでの冒険してきた世界を覚えているのかと尋ねます。
どうやら、普通の人は忘れてしまうようですが、主人公は覚えていました。
「それはまずいな」という青鷺は、異世界での出来事を忘れるように諭します。
さらに、主人公は異世界から、キリコのお守りと白い石を持って帰ってきていたのでした。
青鷺はキリコのお守りを見て、それが強力なお守りであり、自分ならすぐにやられてしまうだろうと発言しています。
それから「まぁ、そのうち忘れるさ」と言い残し、主人公の前から姿を消してしまいました。
主人公を探し回っていた、父親と召使のおばあちゃんたちとも合流しました。
そして、エンディングである米津玄師さんの『地球儀』が流れはじめます。
エンディング後、終戦の2年後のシーンが映し出され、主人公は大切にキリコのお守りと白い石を持っています。
最後に主人公の家族は仲良く元いた東京へと帰って行きました。
解説「持って帰ってきた「どう生きるか」の2つのキーアイテム」

世界の崩壊と共に海が割れるシーンは、ユダヤ教の旧約聖書の有名なシーン(出エジプト記)です。
そのシーンの最重要人物は「モーゼ」という預言者です。
古代エジプトにおいて迫害されていたイスラエル人を、神のお告げによって救出する話です。
そのエジプトからの脱出の際に海を渡る必要に迫られます。
その時突然に、神の力によって海が破り開かれると言う奇跡が起きました。
この神の奇跡によって、モーゼとイスラエルの民はエジプトから逃れることができました。
この作品が世界の崩壊から逃れ出るために、このシーンを使ったのは非常に印象的です。
さらに、仏教の禅者である青鷺が割れた海を飛んで逃れて行きます。
ユダヤ教は、キリスト教やイスラム教の先駆けの宗教であり、西洋社会の核となる部分を持ちます。
この西洋的世界観と東洋的世界観を同時に描いているのが、この作品の特徴でもあります。
それぞれの宗教が世界の真理を探求し続ける歴史があり、その世界観が現代において調和されていくのかは不明です。
しかし、この作品ではそのことに真摯に取り組んでいる足跡を見て撮ることができました。
主人公とヒミの別れのシーンは、1つの回答を書いているように見えます。
人はいずれ死にますが、それが分かっていても生命が続いていくことを「素敵なことじゃないか!」と割り切るヒミの姿勢は、生きることに迷う主人公にとって強い希望になり得たと思います。
異世界から鳥達が飛び出してくるシーンですが、ペリカンだけはそのまま出てきたように見えます。
しかも、その量があまりにも多く描かれていて、非常に不気味な印象を受けます。
異世界の時点から他の鳥と違ってあまり擬人化されていませんでしたが、他のインコが可愛くなって出てきたことに比べると、異様な感じがします。
ペリカンはこれまで解説してきたように、死のふちに住まい、真実へ連れ去る者であり、反出生の象徴的な存在でした。
主人公が異世界から帰還すると共に、このペリカンが一緒に帰ってきて世界に放たれました。
私は、このシーンで背筋が凍るような感覚がありました。
これが世界にとって良い結果となるか、悪い結果となるかは判然としません。
主人公が異世界から持って帰ってきた2つのものには、「どう生きるか」が象徴されているように思います。
キリコのお守りは人としての「愛情」、白い石は「悟り」だと思います。
青鷺はキリコのお守りにやられてしまうと言っていました。
これは、人をこの世界に繋ぎ止める為の非常に強い力である「愛情」の前に禅者が無力であることを認めているといえます。
これは全くその通りであり、愛情は全人類にとっての「生き方」の最も直感な部分であるといえます。
白い石は「悟り」としての生き方ではなかと思います。
仏教では、愛情も執着であるとし、その拘束から自由であることを目指します。
キリコのお守りとは違った、生物的な拘束を超越した生き方を表しているように思えます。
しかし、この2つを同時に持って帰ってきている主人公「真人」が、この作品が最も伝えたかったことの正体であると思います。
「人間的な繋がりの中で生きること」「悟りとしての全ての拘束から解き離れた生き方」
『君たちはどう生きるか』と言う命題に対し、この矛盾するような2つの生き方を同時に生きることが、この作品の1つの回答であると思いました。
最後に

エンディングは米津さんの『地球儀』という曲です。
歌詞では「地球儀を回すように」とあります。
原作の小説である『君たちはどう生きるか』の主人公の名前はコペル君です。
コペル君は、15世紀に「地動説」を唱えたニコラウス・コペルニクスさんから取られた名前です。
宇宙は地球を中心に回っているわけではなく、地球が太陽の周りを回っていると言う「地動説」を唱えたコペルニクスは周囲から批判されます。
「地動説」は当時の主流であった「天動説」とは、視点が180度違ったからです。
「地球儀を回すように、扉を開け放って秘密を暴き出す」と歌うこの歌。
これはまさに、視点を180度変えるようにして世界を見渡すことで、争いや奴隷的な運命を背をう人間の世界を、穏やかなものに変える突破口を見つけ出すための物語を歌ったのだと思います。
仏教の悟りにはこの性質が備わっています。
般若心経における「空(くう)」の思想がこれに値しています。
また、エンドロールの最後に宮崎駿監督の名前が表示されますが、表記は「宮﨑駿」になっています。
なぜ、「埼」→「﨑」に変わっているのでしょうか。
これもやはり予想ですが、おそらく駿監督のお戒名の可能性があります。
仏教では仏道に入る際に、戒名というお坊さんの名前をいただきます(世間では亡くなった死後の名前のように理解されていますが…)。
このように捉えると、この作品自体が非常に大きな区切りになっているように思えます。
また、作中で異世界にいた人物で、本来元の世界と繋がりのあった人物は、みな何かしらの喪失を経験した人々であったと言えます。
主人公は母親を火災で亡くし、その母親(ヒミ)も学生時代に母親を亡くしています。
大叔父も妻を亡くしてしまった人物です。
キリコも主人公の自傷の傷と同じ傷を持っていたので、自傷行為い至るような過去があったと思われます。
概して言えることは、この様な強い喪失体験がある人物は、作中の異世界(悟りの世界)を人生の中で通過していく傾向にあるということです。
何かを失ってしまった時、新たに開かれる世界があることを伝えようとしているのもこの作品のメッセージだと感じました。
仏教からのこの物語に対する回答は「中道」だと思います。
中道のあり方は、この物語の回答と相違無い内容だと思います。
中道は世界の2つの姿を知得しておきながら、その2つに偏らない生き方のことを指します。
世界の2つの姿とは、仏教用語で「仮(け)」「空(くう)」を言います。
仮は、私たちが普段から知覚している世界の姿です。
仮には、沢山のモノがあって、色・音・香・味・触感などがあります。
空は、上記のものに一切の区別を施さない、いわゆる真理の世界です。
空には、一切のものに対し生物が本能的に施す線引きを行わない世界なので、言葉では全く表現のしようがありません。
この物語であれば、キリコのお守りが「仮」、白い石が「空」と言えるでしょう。
中道はこの2つのどちらにも偏らないあり方を指します。
以下は「中道」を説く最重要と言えるお経の『円頓章』です。
円頓者 初縁実相 造境即中 無不真実 繋縁法界 一念法界 一色一香 無非中道 己界及仏界 衆生界亦然 陰入皆如 無苦可捨 無明塵労 即是菩提 無集可断 辺邪皆中正 無道可修 生死即涅槃 無滅可証 無苦無集 故無世間 無道無滅 故無出世間 純一実相 実相外 更無別法 法性寂然名止 寂而常照名観 雖言初後 無二無別 是名円頓止観
当知身土 一念三千 故成道時 称此本理 一身一念 遍於法界
『円頓章』
ここでの解説はあまりにも長文になるので、気になる人は訳などを調べられると良いかと思います。
非常に重要な内容のお経ですので、まだ浅学の身ですが今後解説してみといと思います。
また、他にこの作品を考察している方の中で、「六道」の思想を当てはめながら見ている方がいらっしゃいました。
仏教思想の重要概念である六道ですが、今回その解説を用いなかったのは、シーンを6区分に分けることがなかなか困難だなと感じたからです。
塔の床に沈んだ時を「地獄道」、魚釣りから食事の布施を「餓鬼道」、インコの登場を「畜生道」、大王の野望や怒りを「修羅道」、政治的な主義思想や元の世界を「人間道」、大叔父のいる世界を「天道」
このようにも分けられるかもしれません。
しかし六道思想自体が、六道の中にさらに六道があるなどの複雑性を持っています。
この作品ではそこまで表現されているように感じたので、この記事では塔の床に沈んだ時点から「悟りの世界」という表現をさせていただきました。
そして、主人公が仏道的な成長を遂げていく中で、「どう生きるか」という課題に対し自らの決断を行うという視点から解説させていただきました。
また、仏教的な視点で考察すると題していますが、この作品自体は、日本のイデオロギーや「神道」や「ユダヤ教」・駿監督自身の生い立ちや世界観などの様々な視点が混じり合っています。
そして、私自身は仏教の天台宗に属している者です。
他にも仏教的な解釈は様々にあると考えられますのでご了承ください。
私ごとですが、映画を見てからこの記事を書くにあたって、お盆という最も忙しい時期を迎えてしまいました。
もっと鮮度の高い記憶と情報で書いてみたかったのですが、遅筆ために間違った考察も多く含まれると思います。
ここまでの長文を読んで下さった方に大変な感謝を伝えたく思います。
ただ、筆者の一視点であることをお忘れなく、あなたの「どう生きるか」の糧にしていただければ幸いと思います。
そして、このような素晴らしい作品を考察するという負い目と、スタジオジブリの皆さんに感謝を伝えたいと思います。


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