【仏教の視野】「言葉」について

法話

コラム【仏教の視野】の第1回に当たる記事となります。

(始めにこちらの記事に目を通していただけると幸いです→目的・注意書き

はじめに

仏教のことについて記していくと言っているのに、なぜ初めに「言葉について」という内容になるのか、と思われたかも知れません。

ただ私自身、仏教を言葉で語る際には避けて通れないものがあると確信しており、初めにこの内容を書く必要を強く感じています。

結論から述べますと、仏教の「悟り」は、言葉のみを使って明確に説明することはできず、自身の体験によって知ることができると考えるからです。

ここで少しご注意いただきたいのですが、私自身は初学者ですので、様々な文献を当たってみた所感として、考えたことを記していきます。

「言葉」の性質

仏教では、しばしば「知識と経験は車の両輪のようなもの」と伝えられます。知識ばかりではダメで、体験も非常に重要であると説かれます。

この考え方は現代ではあまりパッとしないかとも思われます。

21世紀は「科学の時代」と呼ばれています。

科学は合理性に基づき言葉もしくは数字によって、全てが明確に説明されなければならないと一般的に考えられています。

この世界観は私達も影響を受けており、知識的な合理性を常に求め続けます。

これは合理性を欠けばそれ以外は間違いであるという、ある種、科学に対する盲目的な信仰とさえなって私たちの考え方に影響します。

(私自身は科学が非常に好きで、科学について今後の記事で述べようと思います。)

では、言葉による合理性は全ての出来事に関して明確に説明することができるのでしょうか。

おそらく言葉は、全てを明確に説明することは出来ません。

言葉がいつからあるかは明確ではありませんが、約400万年前に人類が誕生してから後に発生したものです。

言葉は、人類が生み出した「道具」の一種と言えます。

道具には出来ることとできないことがあります。

ここで「言葉」の基本的な性質を示したいと思います。

「言葉」の性質

言語は世界を分割する。分割はモノの分割に限らず、色や、人や動物の動作、人とモノ、モノとモノの関係などにも及ぶ。言語は、世界にもともと存在していない境界線を引くのだ。

『ことばと思考』今井むつみ(2018).p60-61

この説明から、言葉には、世界中の物事を切り分けていく性質があるということが分かります。

言葉の使用は、人類の進化にとてつもなく大きな影響を与えています。

物事の伝達だけでなく、私たちの世界の見方自体にも変化をもたらしました。

その最もたるものが「世界にもともと存在していない境界線を引く」というものです。

私達が普段の生活の中で、明確に境界線が見えるということはありません。

それは生まれて言葉を覚えてからごく自然に行われることであり、いわゆる「分別」と言われる、社会生活を行う上で当たり前のものとして捉えられています。

例えば、「日本」という言葉を使うと、地球上に日本の国境という線引きが現れるように感じます。もちろん、国境は人間社会が定めているものであり、私たちの頭の中にしか存在していません。

このようなことが言葉を使った線引きを行なっている状態です。

言葉による線引きと悟り

ここで話を戻して、どうして仏教を言葉で説明し切ることができないのかと言うことを述べていきます。

先ほども述べたように、言葉には物事を分割し境界線を引く性質があります。

仏教を理解する上では、この頭の中で行われる「線引き」と言う行為こそがネックとなります。

仏教が最終的に目指す「悟り」は、この「線引き」が意図せず行われることがない状態と考えられます。

仏教では、言葉という道具の使用目的が「線引き」であるのに、その「線引き」のない状態である「悟り」を伝えるためには言葉を頼りとできないという課題を抱えています(特にこのブログという書き物において)。

言葉と経験

非常にややこしくなってしまったのですが、このようなことは普段からよく経験されることです。

例えば、外国人に味噌汁の味を説明するという場面を考えてみましょう。

私達は味噌汁をよく知っており、味噌汁の味と言われると、ある程度思い出すことができます。

しかし、味噌汁を飲んだことのない外国人に対して味の説明をしようとすると、どのように説明すれば良いのでしょうか?

まず考えられるのが、味噌の説明をして、その他のレシピの説明をすると言ったことがきます。

ただ、これでは全く味噌汁の味の説明をしたことにはなりません。

これでは、それぞれの材料に対して「線引き」を行ったのみであり、味噌汁のあの複雑な味わいを伝えたことにはなりません。

また味噌汁に似た料理を引き合いとして説明するということもできますが、もちろんそれはただ似ているだけです。

この味噌汁の例から分かるように、私たち自身が「体感」する物事については、言葉によってその体感を正確に伝えることはできないのです。

その原因が、言葉の性質である「線引き」です。

これを仏教の「悟り」に置き換えて考えます。

味噌汁を飲むことは、悟りの感得にあたります。

しかし、悟りを言葉で説明すると、味噌汁の味を説明するときと同様に、非常に断片的な情報になり、結局は訳の分からない内容となってしまいます。

この考え方は一風変わっているように思われるかも知れませんが、仏教では「悟りの味」という表現がしばしば使われます(最澄著の『願文』など)。

これは偶然ではなく、「悟り」自体が言葉を仲介しない「体感」そのものと考えられるからです。

結局のところ、味噌汁の味は言葉では伝えられず、味噌汁そのものを飲んでみないと分からないということです。

これと同じで、「悟り」は一人一人の実践によって求められるものであると考えられます。

「悟り」を味わったことのない人は、例え話の中の外国人にあたります。

いくら悟りを味わったことのある人であっても、悟りを知らない人に言葉で説明するということは出来ないのです。

私自身がまるで、「悟り」について知ったかのような書き方になってしまい気が引けているのですが、このように考えた理由が他にもあります。

言葉と禅

仏教の伝え方にも様々な方法があるのですが、その中でも曹洞宗などの「禅」を中心とした仏教では「不立文字」という考えがあります。

漢字の通り「文字を立てない」、つまり修行者が言葉に寄らずに仏教を感得することを旨とする考え方です。

これまでの内容は「不立文字」に深く関わる内容であったと言えます。

「禅」は最終的に、「ただ座る」ということになると言われます。

一切の言葉の仲介を経ず、または禅問答のように言葉の意味を超える経験によって、悟りを味わうと聞きます。

それを私の言葉で表現すれば、「全体性の感得」ということになるかも知れません。

仏教の言葉を使えば、「縁起の感得」と呼ばれるものであると思われます。

この点について、最も近代的かつ的確に表現し得た書物が、西田幾多郎の『善の研究』だと思われます。難解な内容ですが非常におすすめしたい一冊です。

終わりに

これ以上、予測での言及は避けようと思いますが、仏教と言葉の関係性についてイメージを掴んでいただけたでしょうか?

今回はコラムの書き始めということで、言葉で説明する際の注意喚起に近いような内容になりました。

仏教を言葉のみで伝えようとすると、始めにこのような内容に触れておく必要があると考えたため長々と書かせて頂きました。

ただもちろん、言葉は無力であるというわけではありません。

仏教では言葉の意味を超えるような「真言」や「念仏」といった考えもあります。

この記事では、仏教がどのように世界を見ているのかということをある程度表現することは可能だと思います。

それは、仏教の核心の周りをグルグル回り続けるような行いとも言えますが、この記事を通して仏教に興味を持っていただけたら幸いと思います。

結局、「悟り」の為の実践はどのようにすれば良いのかということに触れていないのですが、このことについても後々触れていきたい内容です。

*1.『ことばと思考』今井むつみ(2018)

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